月日の経つのは本当に早いものである。今年の9月は、私がライト外語スクールを津山に設立してから20周年目となる、節目の年だ。 この記念すべき一年を迎えるにあたって、ここに至るまでのスクールの道のりを感慨深く振り返ったりしている、今日この頃だ。 中学校入学時に初めて英語に接して以来、英語は私をとりこにした。英語は、私に広い世界観を与え、私の人生そのものをも大きく変えてくれ、今では英語は、私にとって欠くことのできない大切な道具となっている。この英語という素晴らしい言語を駆使できる喜びを、この県北で少しでも多くの人と分かちあいたい。そして、英語を通じて皆様方がそれぞれの夢を実現するための、その手助けをさせていただきたい。その切なる思いから、私はこのスクールを始めたのである。そして今年は、スクールにとって節目となる一年である。そこで今回、これまでの20周年を振り返ってみて、スクールのこれまでの足跡を今一度、たどってみたいと思う。
私は、アメリカの大学で修士号を獲得した後、アイオワ州の州都デモインにある個人経営の会社で事務員をしたり、ヘルスクラブでエアロビックスのインストラクターをしたりして、アメリカで計4年間を過ごした後、1986年、アメリカでの生活に終止符を打って、故郷、津山へと帰ってきた。アメリカに居た頃は、毎日が英語という理想的な環境であった。が、日本にいた頃に持っていた、英語に対する理念や情熱は、まったく失せてしまっていた。津山で英会話学校を始めるという当初抱いていた夢も、すでに過去の思い出となってしまっていた。その頃の私は、日当を稼ぐために黙々と仕事をこなすだけの日々を、ただ見送っていたのである。
私がまだ高校生だった頃、家が全焼するという災難を経験した。そのような状況下にあった我が家の家計では、海外留学なんて、まるで雲を掴むような話であった。志半ばで夢を諦めかけていたそのとき、私は、国際ロータリー財団の奨学生に選ばれ、海外で勉強出来るという、夢に見たほどの素晴らしい機会に恵まれたのだった。 それなのに、アメリカでの私は、誰にでもできる仕事をこなすだけの毎日を、ただ悶々と過ごしていた。 そんなはずではなかった。日本に居た頃は、夢と希望を疑わず、毎日英語ばかりに取り組んでいた。その頃の煮えたぎるような熱い情熱は、遠い異国の地にあって、日々の生活の中に埋もれていってしまった。だが、海外留学という、感謝しても仕切れないような幸運に恵まれたことに対しては、日本に帰って、いくら小さくてもいいから、自分なりにこの恩を社会に還元するべきである、という思いが、私を駆り立てた。そして今行動に移さなければ、私は一生後悔すると考え、意を決して日本に帰ってきたのだった。 この時私は、アメリカで国際結婚をして妊娠3ヶ月という身であったにも拘わらず たった一人でアメリカを後にしたのである。
当時津山では英会話にまだそれほど需要がなく、ブリギッタ外語スクールという小さな学校が、今は無きイズミデパートの隣、金楊堂ビルの5階にあるのみであった。スクールを始めるという夢に向かっての第一歩のつもりで、私はブリギッタ外語スクールのドアを叩いた。 スイスからのブリギッタさんがたった一人で指導に当たっていた小さな学校で、彼女は折しもスイスに帰国を考えていたところだった。 その場で彼女の後任として仕事を任され、それ以後は、出産の前後、1ヶ月ほど休みを取っただけで、毎日フルタイムで指導に当たった。 それから数年のうちに外国人講師が常時2-3名、受付と私を含む日本人講師が2名というメンバーで展開していったのだが、しかし、20年以上も前の津山である。英会話に対する需要が今ほどあるはずもなかった。供給が需要を上回る状態が何年か続き、やがてブリギッタ外語スクールは閉校を余儀なくされた。小さい子供を抱えていた私は、英会話業界はきれいに諦め、安定した生活のために、地元の会社で事務員として働くことを真剣に考えた。だがどうしても自分の英会話学校を始めるという夢は捨て切れなかった。経済的にも時間的にも不安定な仕事で、幼児をつれての生活は困難であることはわかっていたのだが、自分のやりたい道を歩むべく、この経営難のブリギッタ外語スクールを私が引き継いだのである。 経費削減のために、受付の方には辞めてもらい、講師は外国人講師2人と私の3名にとどめ、私が事務、受付も担当することにした。 教科書を含むすべての備品をブリギッタ外語スクールのオーナーに返却し、スクール名も「ライト外語スクール」と改名した。1990年9月、エアコンも机も椅子も、教材さえない状態での「ライト外語スクール」の始まりである。