ライト外語スクール開校20年目の節目となる今年、先回のニュースレターでは スクールの開校に至るまでの道程を振り返った。 1990年9月、今は無きイ ズミ隣の金楊堂ビル5階の小さな教室で、何も無いところからはじめたスクール は、現在の山下の教室に移転するまでの約14年間を金楊堂ビルを拠点として展 開して行くこととなる。 今回は 金楊堂ビルでの14年間を振り返ってみたい。
開校当初は、生徒さんの数も本当に少ないものであったが、この地域で英会話学校が他に存在しなかったことも助けになって、徐々に口コミで生徒さんが増えていった。 幸いなことに当時、各地の行政は、今と違って生涯学習に少なからず予算を充てていたことから、各地の公民館等から度々講師派遣の依頼があった。おもに加茂、勝北、奥津、奈 義、建部、久世などの広範囲にわたって、公民館活動の一環として英会話クラスの指導に講師を派遣させていただいた。 またライト外語スクール開校と同じ時 期 に開設された津山社会保険センターでも、子供クラスと大人クラスを担当し、多 い時では、当校が週5でクラスを担当させていただいた。 その他、個人の英会話 グループ、企業、幼稚園、大学などにも講師を派遣させていただき、事業の半分以上が外回りのクラスであった。 このような形で、10数年にわたり、各地の 大勢の人々とかかわりながら、地域の英語教育に貢献できたことは、個人経営の小さな 英会話学校にとって、本当に恵まれていたと思う。 残念なことに、時代の流 れとともに生涯学習の予算は削られ、市民の憩いの場を提供 してくれていた社会保険センターも閉館となり、現在は、久世公民館で生徒さん が自主活動として行っている英会話クラスや、幼稚園、企業のクラスに講師を派遣させていた だくにとどまっている。 過去20年ほどの間に、早期英語教育の必要性が益々叫ばれ始め、子供対象の英 語教室が各地で開校されている中、私は、まだ「早期英語教育」という言葉が耳慣れない20年以上も前から、子供対象の英語指導にあたっている。 まだライ ト外語スクールが、前身のブリギッタ外語スクールだったころ、ある教育熱心なお 母さんから、1歳半と3歳になる子供2人の英語指導を依頼されたのが きっかけである。 私自身、中学入学と同時に英語の学習を始めたので、当初は幼児への英語指導に疑念や戸惑いがあった。そのころは、市販の教材も満足に手 に入らない状況で、そのなかで暗中模索し、手作りのカードやゲームなど、あちらこちらから教材になりそうなもを探しては利用して、指導にあたっていた。 しかし、当時は私の経験不足もあり、子供の可能性を十分に理解できていなかった。指導はお遊び英語の繰り返しに過ぎず、しっかり身につく英語の指導が十分にできていなかったことを、遺憾ながら認めねばなるまい。しかし、経験を経るにしたがって、「小さいうちはただ英語に親しむだけで十分では?」という考 えが間違っているのではと思い、以後は指導内容の充実をはかり、今では、小学校卒業時に、最低でも中学校の課程修了時の実力をつけてもらうことを目指している。 その成果は着実に現れており、低学年からでも英検合格者を多数輩出したり、各種スピー チコンテストで優勝者を出すなどしている。当校の子供たちは、これからの人生において英語とより良くかかわっていくため必要な基礎固めができている、と自負している。
金楊堂ビルは、現在の教室の3分の1程度のスペースしかなかった。そこでは、2つの少人数グループを同時に指導することがやっとであった。スクールが 存続してゆく為には、生徒さんのニーズに応えて、もっと広いスペースを用意することが求められていた。 教室の移転を考え始めてから2年 ほどたって、偶然通りかかった城北通りで気になる建物を見つけた。まだ新築の物件であり、文化センターに面した広い窓には「テナント募集」のサインがある。それは、私がぼんやりと頭の中でイメージしていた通りの物件であり、何か運命的なものを感 じさえした。だから、不動産の方から、「もう先客がある」 と聞いた時は、残念で仕方が無かった。 それでも諦めきれなかった私は、その後 毎日、仕事帰りにこの物件を眺めにいっては、この日当たりのいい教室で英語指導にあたる夢を再確認した。 その私の願いが天に届いたの か、先に物件をおさえていた先客の方は土壇場になって契約を辞退、私が移転できることとなったのだ。 まるで夢のような話に歓喜するとともに、ますます地域に根ざし た英語教育に邁進することを心に誓い、山下の現在の教室で 2004年11月1日、ライト外語スクールの新たな一歩を踏み出した。